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2018-01-31

Jasmine-Editorial #06 エンジン全開 突撃特集

  It’s Underconstruction!
 こちらは茉莉花社・塩澤幸登のホームページです。
はじまったばかりなので不手際が多発してるかも知れません。
ぼちぼちやっていきますので、不如意をガマンしてください。

Jasmine Editorials #06
★沈黙図書館通信★
2018年01月31日号

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表紙&扉
新藤凉子『目覚めたならゆめだったと』

京都タワー(Presented by Tadahiro Kondo)

新藤凉子さんは詩誌『歴程』同人、1932年(昭和7年)の生まれだから、五木寛之、岸惠子、仲代達矢らと同世代。資料によれば、ダンナ様は元産経新聞論説副主幹で、近畿大学中国文化史教授の古屋圭二さん(1931〜2000)。上掲の作品は、詩集『薔薇色のカモメ』(2006年の上梓)のなかに収録されたもの。

多分、この詩は夫君の闘病生活の最後の模様を詠ったものだと思う。愛する者を死によって奪われる重く深い悲しみを、こういう瞬間にしか作れない純度の高い詩作品に書きあげている。
同じテーマの詩が四つある。それをすべて紹介しておく。

わたしたちくらいの年齢になると、誰もみな、親に死なれたり、相方に死なれたりして、同じような経験をしていると思う。人間の死は世の中の人達にとっては、どこにでもあるありふれた日常事だが、死んでゆく本人にとっては人生最大の大事件、周辺の人達にとっても最大の喪失という、価値の矛盾があるできごとだ。そのことを最後の二行が端正に表現している。

化粧を落とした小泉今日子のようなかわいい顔をしている。若いころは劇団の女優で、草野心平と知り合って、詩を作り始めた。1950年代には新宿で文壇バーを経営していた、とある。新川和江などとともに現代の女流詩人を代表する人のひとり。

作品の中に海が出て来るのは、彼女たちが熱海で生活していたから。
作品はどれも独特というか、オリジナルの字送りと行送りがあるのだが、画像との調整の都合で、わたしが勝手に作りかえている。本当はこういうことをしたらいけないのかも知れないが、一枚の写真の中で一つの作品を読ませようとすると、行数の多い作品については、こうせざるをえない。作品が持っている純粋さと熱は伝わると思っている。最愛のものに死なれる悲しみを人間としての全存在を賭して詩にしている、そういう作品である。

詩集『薔薇色のカモメ』の中には夫の死だけでなく、同時代の詩人たち、草野心平や渋沢孝輔、吉原幸子らへの哀悼歌も掲載されていて、全体が死者への思いでまとめあげられているような詩集である。これ以前の作品は『新藤凉子詩集』にまとめられているが、好ましい作品が多い。というか、わたしの作るものと質が似ているのかも知れない。好きな詩人である。
死者は結局、そのあともつづけて生きていく人間に、生きた日々の様々の想いを托し、残して姿を消す。彼女と同年齢の五木寛之はいまの世の中を[多死社会]と呼んだが、言葉の通り、本当に、毎日、知り合いや有名人や誰かが死んでいく世の中になった。わたしたちは日常で死を覚悟して、刹那を大事なものと考えながら生きれば、生きている喜びをあらためて実感することが出来るだろう。しかし、同時に、みずからの死によって始まる生きている者たちとの別れを思わざるをえない。死者は生きるものの記憶のなかで生きつづける、それしかない。

目次

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[今週のBookガイド]
小川洋子著 『沈黙博物館』

[沈黙図書館]を名乗っているのは、日本中でわたしだけだと思うが、じつはこれとは別に、[沈黙博物館]というのが存在する。これは二〇〇〇年の九月に筑摩書房から出版された小川洋子さんの書いた小説で、これが文化施設として、沈黙〇〇館を名乗る嚆矢ではないかと思う。

ある人たちから「あなたの沈黙図書館は寺山修司の[幻想図書館]をもじったんですか」とか、「遠藤周作さんの『沈黙』と関係ありますか」などと聞かれた。わたしの図書館にも寺山の本が10冊くらい、遠藤周作の本は20冊くらいあると思うが、とりあえず、二人は[沈黙図書館]には関係がない。
わたしが自分が務めていた出版社を退社したのは二〇〇一年の暮れのことである。小川さんのこの小説が単行本発売されたとき、わたしはまだサラリーマンである。働いても働かなくても毎月、なにがしかの給料が振り込まれるという恵まれた環境にあった。じつはこの小説は、なんの屈託もなく夢中になって読書にふけることのできた、恵まれていた時代の最後の方で読んだ小説作品の一つになった。そのこともあるのだが、この作品はわたしがこの二〇年ほどのあいだに読んだもっともおもしろい小説だと思う。といううち、わたしはこういう小説が好きなのである。

二〇〇二年の正月からフリーランスのもの書きになるのだが、フリーとは名ばかりで、とにかく、いきなり自由な読書の時間がとれなくなってしまった。本は昔と同じようにかなりの量、読んでいると思うが、どの本も必ず、その時に書いている原稿書きのための参考文献か、執筆予定のテーマのための資料探しのような心づもりで本を読んでいる、そんなことばかりである。
わたしは、二〇〇一年の正月だから、本当に正真正銘の二十一世紀の初めなのだが、小川さんの[沈黙博物館]を読んで、ウム、これからはほんとになにごとも沈黙の時代だなと思った。それで、その年の暮れに誰にもなにもいわず、キナさん(=木滑良久。当時はまだマガジンハウスの会長だった)にも相談せずに〝沈黙〟のまま会社を辞めたのである。
それはこの[沈黙博物館]のなかで小川さんが提唱している(その時のわたしにはそう思えた)沈黙の思想に大いに共感したからだった。それでは〝沈黙の思想〟とはいかなるものなのか。

これがこの本の帯写真である。装幀は「らくだこぶ書房21世紀古書目録」などで知られるクラフト・エヴィング商会の吉田篤弘・吉田浩美。

この本に書かれている内容を四行に要約した文言がこういうもので、このコピーを読むだけでも、小川さんが考えた[沈黙]のコンセプトがある程度分かるというものだが、それをさらに説明すると、作品中にこういう文章がある。博物館への就職を希望する主人公の少年が博物館主たる老婆から就職試験の面接を受ける場面である。長文引用になる。

カーテン越しにも日が傾きかけているのが分かった。風が強まってきたらしく、遠くで木立のざわめきが聞こえた。足下から立ち上がってくる冷えた空気が、沈黙にいっそうの密度を与えていた。
「お前が習得しておる博物館の定義について、述べてみよ」
(老婆の)入歯が外れそうになり、一段と勢いよく唾が飛び散った。
「はい」
 自分を感じのよい人間に見せようなどという努力が無意味なのは、もはや明らかだった。僕はただもう、頭に浮かんだままを喋ることにした。
「公衆に開かれ、社会とその発展に奉仕し、かつまた人間と環境との物的証拠に関する諸調査を行い、これらを獲得、保存、報告し、しかも研究・教育とレクリエーションを目的として陳列する、営利を目的としない恒常的な機関──です」
「ふん、つまらん。国際博物館評議会の概念規定を、暗唱しただけじゃないか」
老婆は喉をゼロゼロいわせ、一つくしゃみをしたあと、入歯を奥に押し込めた。
「いいか。そんなせせこましい定義など、すぐに忘れることじゃ。若い頃、世界中の博物館を観て回った。丸三日かけても歩ききれん巨大な国立博物館から、偏屈なじいさんが納屋を改装して作った農機具資料室まで、ありとあらゆる場所をな。しかし、一つとして私を満足させてはくれなかった。あんなもの、ただの物置にすぎん。叡智の神たちに捧げ物をしようという情熱が、かけらも見えん。私が目指しているのは、人間の存在を超越した博物館じゃ。何の変哲もないと思われるゴミ箱の腐った野菜屑にさえ、奇跡的な生の痕跡を見出す、この世の営みを根底から包み込むような……まあ、いくら説明したって無駄かもしれん。〝営利を目的としない恒常的な機関……〟などと抜かしておる者が相手ではな」

これが小川さんが考えた理想の博物館である。「人間の存在を超越した、何の変哲もないと思われるゴミ箱の腐った野菜屑にさえ、奇跡的な生の痕跡を見出す」、そういう博物館。それが沈黙博物館だ。
漫画で「沈黙の艦隊」があったり、アメリカのアクション映画の世界には〝沈黙の男優〟スティーブン・セガールがいたりするが、わたしにとっての純正の沈黙は、小川洋子さんの〝沈黙〟で、じつはわたしの沈黙図書館も小川さんの沈黙博物館のパクリなのである。しかし、集英社ではないが、わたしはこのことに関しては限りないパクリの情熱を保持していて、このあと、沈黙図書館だけでなく、沈黙写真館や沈黙資料館、最後は沈黙食堂まで作ってやろうと考えている。

そもそも沈黙主義とは何か。その本義は考である。わたしは沈黙主義の信奉者であり、黙って、自分の信じる道を行く、そういう者たちの大便者、じゃなかった代弁者として存在しなければならないと思っている。そして、これらの作業を持続することによって、わたしは純粋にわたしのブログの読者である[沈黙主義者たち]を確定させなければいけないと思いはじめている。
[沈黙主義者]とはつまり、熱心な沈黙図書館の読者たちである。
それで、わたしが考えたのは、いまわたしと関わって存在する『沈黙〇〇館』の展示・陳列物を説明していく、そういうローテーションを組むことだった。わたしには、母親譲りなのだが、奇妙な収集癖というか、捨てられない症候群ともいうべき、自分にしか本当の意味が分からないものを保存しようとする性癖があるのだ。この性向は沈黙〇〇館の学芸員、あるいは司書、書士として、仕事をしようとするときに,必ず役に立つはずである。
そんなことを考えて、〝沈黙展示物〟〝沈黙蔵書〟〝沈黙資料〟〝沈黙写真〟と、わたしが所蔵している、説明しないとなんだこれはというような、わたしにだけしか意味の分からない沈黙の秘蔵物をみんなに見てもらおうと思う。いまのところこれを連載小説と日替わりで、やってみようと思っている。とにかく、芸能ネタを書かなければアクセス数がどんどん減っていくような読者からの支持のされ方ではしょうがないのである。自分のブログの読者を良質な、理解力の高い、感覚が柔軟な人たち人たちでそろえたいと考えるのは不遜な発想だろうか。

わたしの秘密のコレクションのなかには、マレーシアのジャングルでとった珍奇な蝶もあるし、子どものころ、当時はまだ下馬にあった明治薬科大学の校庭でほじくり出した縄文式土器のかけらもある。ロスアンゼルスで手に入れて、ひそかに日本に持ち込んだS&Wk38口径、いわゆるスナップノーズのディテクティブ・スペシャルと弾一箱もあるかも知れないし、天地真理ちゃンが書いてくれたサイン入り色紙もあるかも知れないし、十年前に死んでしまった百瀬博教と作りかけの途中で終わってしまった未完の写真集『不良美術館』の一部をお見せすることもあるかも知れない。15歳のときに好きだった女の子宛に書いたラブ・レターの下書きもとってあるし、83歳で死んだ親父の枕元から出てきた、彼が若く二枚目だった頃の軍服姿の写真もある。自宅でくつろぐ三島由紀夫の写真、相撲取り時代の力道山の写真アルバム、プロレスラーになる前の子ども時代の前田日明、女の子では天地真理、早瀬直美、児島みゆきなどの未発表写真や丸谷才一が講談社の〝宴会編集者〟と呼ばれた榎本昌治にあてた『横しぐれ』のサイン贈呈本もある。これらはすべて、巨大な歴史のかけら、氷山の海面に突出した部分として存在している。そして、わたしならこれらの展示物を、沈黙の存在として持っている大いなる裏面の歴史、生の痕跡を生そのものを超越した存在として語ることができる。沈黙について饒舌であることは、ちょっと自己矛盾みたいなところがあるのだが、人間的進歩や発展は自己矛盾の葛藤のなかにしか存在しなかったというのが、わたしの考えである。

最終結論だが、沈黙主義に賛同してくれるのであれば、ぜひ、小川洋子さんが書いた『沈黙博物館』をお読みいただきたい。

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[レポート]
邑元舎・元村和彦とロバート・フランク写真集『私の手の詩』

昔の資料を整理していたらこんな宅急便の伝票が出てきた。発送の日付が17年12月3日とあるが、これは2017年ではなく平成17年、つまりいまから13年前のものだ。
元村和彦とは何者なのか。

『日本美術年鑑』平成27年版の508頁)にこういう記載がある。

元村和彦は、出版社邑元舎を主宰し、写真集の出版を手がけた写真編集者。
1933(昭和8)年2月11日佐賀県川副町(現、佐賀市)に生まれる。51年佐賀県立佐賀高等学校を卒業後、国税庁の職員となり佐賀、門司、武蔵野、立川、世田谷の各税務署に12年にわたって勤務する。60年、東京綜合写真専門学校に3期生として入学、卒業後引き続き1期生として同校研究科に進み、校長の重森弘淹、教授を務めていた写真家石元泰博らに師事した。
70年、W.ユージン・スミスが日本で取材した際に助手を務めた写真家森永純の紹介で、スミスと知り合い、スミスの写真展「真実こそわが友」(小田急百貨店他)の企画を手がけた。同年秋に渡米、スミスの紹介で写真家ロバート・フランクを訪ね、写真集出版を提案し同意を得る。71年、邑元舎を設立し、72年10月、『私の手の詩 The Lines of My Hand』を刊行。杉浦康平が造本を手がけた同書は、フランクの16年ぶりの写真集として国内だけでなく海外でも広く注目され、後に一部内容を再編したアメリカ版およびヨーロッパ版が刊行された。その後フランクの写真集としては、87年に『花は…(Flower Is…)』、2009(平成21)年には『The Americans, 81 Contact Sheets』を刊行した。邑元舎からは他に森永純写真集『河—累影』(1978年)が出版されている。97年、邑元舎の出版活動に対して、第9回写真の会賞を受賞。
20世紀後半の最も重要な写真家の一人であり、58年の写真集『アメリカ人』が、その後の写真表現に大きな影響を与えたにもかかわらず、映画製作に移行して写真作品を発表していなかったロバート・フランクに、元村は新たな写真集を作らせ、結果的にフランクに写真家としての活動を再開させることになった。これは写真史上特筆すべきものである。フランクとの親交は生涯にわたって続き、写真集の原稿として提供されたものの他、折に触れてフランクより贈られた作品等により形成された元村のフランク作品コレクションは、元村の晩年、東京、御茶ノ水のギャラリーバウハウスにおける数次にわたる展示で紹介され、その中核である145点の作品が、16年に東京国立近代美術館に収蔵された。2014年8月17日に死去した。享年81。

元村さんと知り合いになったきっかけは私が上梓した『KUROSAWA』という日本映画のノンフィクションだった。確か、手紙をくれて「とても面白い本だが、誤植が多い。校正を手伝ってあげます」といってくれたのである。『KUROSAWA』は全三巻、2004年の刊行で、私のフリーランスのノンフィクション作家としてのデビュー作になった作品、これも茉莉花社=河出書房新社・連合軍から出版された書籍なのだが、とにかくスタッフが揃わず、私もマガジンハウスを独立して本格的に書籍出版に取りかかったばかりで、誤字誤植だらけの本を作っていたのである。元村さんは、それを見かねて連絡をくれたのだった。

私はそのとき、いまやその無知を恥じているのだが、当時はネットでの検索もいまほど完全ではなく、元村さんを物好きなおじいさんが協力を申し出てくれたぐらいにしか考えず、『KUROSAWA』の第三巻「撮影現場篇」の校正をお願いした。おかげで、『KUROSAWA』は全三巻の作品なのだが、この本だけ誤植がほとんどないのである。元村さんにも見落としがあり、あとから「申し訳ない」という手紙をもらったが、それどころではなく、確か無償で校正を請け負ってくれて、私が「いくらお払いすればいいですか」と聞いたら、「お金は要らない、このあともいい仕事をしていってください」といわれて、感激したのを覚えている。
下掲の手紙はそのときにいただいたものである。

わたしはそのとき、もちろんロバート・フランクという写真家の名前は知っていたが、その人が写真の世界でどういう役割を果たした人なのか、元村さんがロバート・フランクとどういう関係にあるのか、そういうことまでは知らずにいた。写真集は私のライブラリーのコレクションテーマの一つで、いろいろな人の写真集を持っているが、ロバート・フランクの写真集はなかった。なかったというか、どこにも売っていないのである。

これがロバート・フランクの写真集『私の手の詩』。1972年刊、定価7500円だった。写真集の序文を埴谷雄高、装幀を杉浦康平がおこなっている。50年近い昔の出版だから、もちろん、新刊本はもう手に入らない。アマゾンで調べてみたら、古本を14万5千円で売っていた。これは私が持っている本のなかで最高値。要するに、売り物がほとんどない本なのだろう。

ロバート・フランクの写真はとにかく構図が意味深く、テーマが重く、訴えかけてくるものがリアルな迫力に満ちている。アメリカの写真の世界に革命をもたらしたフォトグラファーといわれているが、写真集の頁を順に見ていくと、軽くトレンディで美しい写真が全盛だった戦後のアメリカの写真界に与えた衝撃が連想できる。

愚かにも私は、元村さんからいただいたものの重要さをそのとき、知ることが出来なかった。いただいた写真集に感動してお礼の手紙は書いたが、元村さんとの付き合いはそれ以上ひろがらなかった。先日、クロネコヤマトの発送伝票を見つけて、彼の人名を検索して、もう四年前に亡くなられていたことを知った。
あらためて、元村さんの「シオザワさん、これからもいい本を作っていって下さいね」という言葉を想い出し、慚愧の想いに絶えず、これを書いている。

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[編集後記]
北池袋の『麻辣湯』

池袋のラーメン屋。最近流行の麻辣湯のお店である。ここは昔、日本人夫婦がやっていた「流星ラーメン」というお店だった。けっこう美味しい醤油ラーメンを食べさせてくれるお店だったのだが、回りに猛烈な数のラーメン屋が乱立して、客を奪われ潰れてしまったのが、三、四年前か。代わって現れたのがこの店、経営者が誰かはわからないが、中国人の若い男女が従業員で働いている。
麻辣湯は中華麺ではなく、春雨をそばに仕立てたもの。これが安くて美味い。私はしばらく、中国本土に旅行していないが、昔、いまから25年くらい前、中国旅行ばかりしていた時期があり、上海などで柳麺など食べたが、美味しいものだった記憶はない。中華料理は中国より日本で食べた方が美味しい、というのがそのときの結論だった。それが、ここで食べる中国人の若者が作ってくれる麻辣湯ももしかしたら台湾起源の料理かも知れないが、辛くて美味しい。
店に来る客は最初、私のような日本人は珍しく、中国の若者たちばかりだったのだが、最近、どこかの雑誌かなにかに載ったのかも知れないが、日本の女の子たちがやたら目立ち始めた。中国の女の子たちもずいぶんオシャレになってきて、昔のように泥臭くてすぐ解るというようなこともなくなった。日中どちらか見分けが付かなかったので、失礼かと思ったが「あなた、日本人?」と聞いたら「そうです」と答えた。

池袋の北口はおそらく日本の中というか、東京という町の中で、もっともインターナショナルな町の一つだと思う。町で日常的に中国語が飛び交い、中国人が働いている飲食店が多数、出店している。東京の今年の成人式では、八人に一人が外国人だったというが、たぶん、こういうラーメン屋みたいなところから始まる、日本の若い人たちの異文化との出会いが、文化落差を時間をかけて埋めていくのだろう。亜細亜は一つというのはいまから100年くらい前に大流行した思想である。日本社会の高齢化とか少子化というようなことを考えると、あらためて、移民してくる人たちをどうするか、彼らの持ち込む独自の文化や生活風習をどうするか、本気で考えざるをえない時代状況に日本は立ち至っている、ということなのだろう。

今週はここまで。 fini。

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