toggle
2018-02-14

Jasmine Editorials #08 二月が逃げていく特集

It’s Underconstruction!
こちらは茉莉花社・塩澤幸登のホームページです。
はじまったばかりなので不手際が多発してるかも知れません。
ぼちぼちやっていきますので、不如意をガマンしてください。

Jasmine Editorials #08
★沈黙図書館通信★
2018年02月14日号

★★★★★
表紙&扉
落合恵子「二月の海の接吻は」(詩集『ゆうべ、海を見た』より)

世界で一番キレイな海の写真(Phiphi Islands)

わたしはカリブ海も知らないし、アフリカの海も知らない。エーゲ海やオーストラリアの海は知っているが、それほどたくさんの海を見てきたわけではない。自分がこの目で見たことのある限りで、ベストに美しい海というと、やはり、アンダマン海のピピ島の海だろう。今からもう18年前になるが、レオナルド・ディカプリオが主演した「ビーチ」という映画があった。こういう映画である。

何かを求めるように、一人旅でタイにやってきたリチャード(レオナルド・ディカプリオ)だが、新しい事をしようとしても、結局、同じ事の繰り返し。そんな時、カオサン通りの安宿でダフィという奇妙な男と知り合う。ダフィは伝説のビーチについて、とり憑かれたように語る。そこは、美しすぎるほどに美しく、日常の全てから解放される夢の楽園。だが、その翌日、ビーチの場所を記した地図を残し、ダフィは変死していた。ビーチの存在に半信半疑なリチャードだったが、ダフィの死をきっかけに、隣室にいたフランス人のカップル、フランソワーズとエティエンヌと共に、楽園を探す旅へ出かける事になる。その島へ近づくため、とりあえず観光ルートをたどる事になるが、さらに、その道中で知り合ったサミーとゼフからも、今、タイで密かに流行っている伝説のビーチの噂を聞かされる。そのビーチは、外界からは完全に遮断された場所にあり、真っ白な砂浜に、どこまでも透き通った綺麗な海、しかも、大麻が大量に茂っていて、朝から晩まで吸い放題だという。

こういう物語の撮影のロケ地に選ばれたのがピピ島だった。
こごがピピ島。

わたしも何度か、取材で行ったり、遊びで行ったりしたが、ピピの海は本当に美しかった。プーケットから船で行く旅先である。アメリカやヨーロッパのワンダーフォーゲルたちの憧れの場所だった。

話がねじれるが、ピピ島の海の美しさを紹介しようと思ったのは、偶然に手に入れた、詩人だった頃の落合恵子さんが書いた『ゆうべ、海を見た』という詩集を古本屋さんで見つけて買ったからだった。1977年の刊行である。

この本自体は編集に問題があり、写真が乱雑、無原則に並べられている上に、デザイナーもページごとに言葉が表現している本質を邪魔しているようなデザインを連発的にやっていて、せっかくの彼女の詩(作品)をビジュアル素材が台無しにしているような本だった。詩集としてきちんと編集していたら、いい本になったのにと思う。作品の一部を紹介しよう。

これは編集担当者がタレント本を作るような調子で頁ネーションを把握して、余計なことばかり考えてやっていたからだろう。きちんとした詩集の体裁をとっていれば、詩そのものはかなりクオリティの高いモノなのではないかと思う。

落合恵子さんといっしょに仕事をしていたのは、わたしが新米の雑誌編集者だったころ、1971年に彼女が最初の著作『おしゃべりな屋根裏部屋』を出したころのことだった。わたしは雑誌で「レモンちゃんと話そう」という座談会企画を担当していたのだった。本を彼女からもらったのだと思うが、この本を読んだときの感想をうすぼんやり覚えている。なんだか才能のある女子高校生が書いた文章だなというようなことを考えた記憶がある。そのころ、わたしは詩を作ることに熱中していて、作品が星菫で味が甘すぎるなと思った記憶がある。それで、こういう詩を書いたらどうかといって、馬淵美意子の全詩集をプレゼントしたのである。馬淵美意子というのは、アメブロの去年の12月4日号の表紙で紹介した詩人で、
絶望の礎の上に、虚構の柱をもって組み立てられねばならぬ夢
虚構の根に、いかに真実を 花咲かせねばならぬかの希望
人間の生涯は、いいえ私の生涯はこの前提を解決できないまま
解決されようとしている
というような作品を書いた人である。わたしがあげたこの詩人の詩集が落合恵子のこれ以降に作った詩にどのくらい影響を与えたかは分からないが、あらためて手に入れて読み直した『ゆうべ、海を見た。』のなかの彼女の作品は、相変わらず少女趣味ではあるが、バカに出来ないような人間存在の重さを感じさせるものになっていた。

落合恵子とシオザワ。45年前の写真、レモンちゃん、かわいい。※写真撮影・土井武

彼女が文化放送につとめていたのは1974年までで、わたしはフリーになってからの彼女は知らない。これ以降の彼女というのは、女・中谷彰宏ではないかと思うくらい、一年間に五冊、六冊の本を上梓している。詩人ではあるが、タレント活動をしていたと書いてもいいかもしれない。それの是非を言う立場にはないが、原宿に「クレヨンハウス」という絵本の専門店をオープンさせたのが1976年、そこを仕事基盤に、猛烈な勢いで仕事の形を変えていった。講談社から小説の『ザ・レイプ』を上梓するのが1982年のことである。

これは一種の彼女自身のもの書きとしての内的必然性のなせる技だと思うし、こういうメタモルフォーゼについてあれこれ言う立場にもないが、こういう70年代を股にかけたスピード感のある変容というのは、山口百恵を思い出させる。落合さんも10年かけて猛烈な勢いで立ち姿を変えていった。あとから、彼女が、自分の処女作であった『おしゃべりな屋根裏部屋』を、「あんな本、出さなければよかった」と発言していた記憶があるが、それは与えられた環境のなかで猛烈な勢いで成長していって、自己否定にたどり着いた、そこからまた、新しい地平を目指して、自分と戦いつづけた、ということなのだろうと思う。

人間的成長は変節とも書きうる。彼女がドンドン政治的人間へと変貌していったことについて、わたしはなんにも言うことができないが、文学は現実も表現できれば、夢や憧れを表現することもできる。

落合恵子さんはわたしより3歳年上だが、七十を超えて、作家として、あらためて人間をどう描くか、そういう作品を読んでみたい気がする。

潮騒の凪いだピピ島の海だけでなく、世界中のどこにでも夢のように美しい場面がある。その美しい場所にも貧富の差はあり、差別もあり、現実の苦渋もある。同じように愛の歓びもあれば、美しい夕暮れのサンセットもある。

わたしたちはいつも現実と理想のあいだで引き裂かれる存在である。その現実と理想の落差を政治的に受け止めて、現実を直截的に変革するために発言し行動するか、あるいは人間的な宿命というか、運命として受け止め、文学的な抵抗をくり広げるか、道はふたつに分かれる。文学は政治の前にいつも無力だが、政治的行動というのは現実を作りかえることは出来ても、個別の人間の現実の問題を解決することは出来ない。最後に人間の精神を救済するのは文学的志向、詩的精神や宗教的信仰心、倫理的営為である。

思わず、けっこう難しいことを書いてしまった。

ピピの海は本当にため息が出るほど美しい。

目次

★★★★★
[今週のガイドブック]
佐々木亀三郎所有 『庭訓往来』ほか


ここでまた第二沈黙博物館=沈黙図書館の珍品、秘蔵図書の紹介である。
和綴じ本は神田の古本屋さんにいけば、何がしかが手に入るが、この『庭訓往来』、『消息往来』、『商売往来』の三冊と木版印刷で作られた『刪修近古史談(三)』は、その由緒のはっきりわかっているもので、これらをわたしが手に入れてから既に55年が経過している。わたしの実家は長野県下伊那郡の下條村というところなのだが、話はまことにわたしがまた、15歳のとき、高校一年生の夏の話である。春先の寒い日に風邪を引き、こじらせて、血痰がひどく、気管支は慢性的な炎症状態になり、医者から肺浸潤だと言われた。肺浸潤というのは肺のなかにただれてしまった部分があるということだ。これは肺の病状のひとつで、結核になったときにも同様の症状が出る。結核菌の有無を調べてもらったが、それは陰性だった。しかし、医者は「これで結核菌に感染したら大変なことになる、夏の間、どこか空気のきれいなところで生活した方がいい、いわゆる転地療法です」と『魔の山』の医者のようなことを言われた。それで、夏の間、長野県の下條村に転地療養したのである。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

そこの塩澤家に一ヵ月あまり(途中10日間くらいは南信の端にある根羽村に)滞在したのだが、そこに古い倉があり、古いモノがいっぱい納められていた。病気の方は、山の中のきれいな空気と夏休みの開放感のおかげで、あっというまに治ってしまった。それで、毎日そのへんを歩き回ったり、川遊びをしたりして、遊んで暮らしていたのだが、そのなかで倉の中になにがあるか調べることに熱中していて、錆びた刀とか古い掛け軸とか昔の茶碗とかに混じって、この四冊の和本を見つけたのである。それで、伯父さんに「この四冊をくれないか」と頼んで東京に持ち帰った。それからずっとわたしが所持している。

書の中に書かれていることに、どれほどの意味があるかもわたしには不明で、インターネットにはそれぞれの書の口語訳が載っている、資料的な価値が優れてあるモノとはわたしも思っていないが、ご先祖様がこれを使って勉強したのかと思えば、意味は格別で、わたしにとっては貴重な蔵書である。これもわたしが死ぬまでは手元に置いて、保存するつもりでいる。

★★★★★
[グラビア]
一枚の写真『とある少年の写真アルバム』

この中学生らしき人物は誰か。写真が黄ばんでいるから、撮影は戦前のものである。これがそのアルバムの中で、一番古い写真ではないかと思うが、確かめようがない。
まず、第一ヒントはこの人は、1924年に日本統治時代の朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で朝鮮人の両親のもとに生まれた、ということ。それから行くと、中学生だったら、1938、9年ころの撮影である。
昭和三十年代、もっとも活躍した、有名な人間のひとりである。もともとは相撲の世界の人間、力士だった。この経緯を、手元の資料はこう説明している。
1940年(昭和15年)、朝鮮の六?という明太の漁場の村で朝鮮相撲(シルム)の大会に出場していた金光浩)、日本名:金村光浩)を、当地で刑事補をしていた長崎県大村市出身の小方寅一と相撲好きの百田已之助(二所ノ関部屋の後援幹事、小方寅一の母親の再婚相手)がその体格と相撲素質に見惚れ、東京の二所ノ関部屋へ知らせた。二所ノ関親方・玉ノ海梅吉が朝鮮に渡って入門交渉をしたが、母親が反対し、急いで嫁を探して結婚式を挙げさせた。そして1942年(昭和17年)2月に入門した。親方の玉の海は、「国技の力士が(植民地の)朝鮮出身じゃまずかろう」と諭し、現在の本名・百田光浩、長崎県大村市出身という手筈が整えられた(金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』)。ただし、後述のように1940年5月場所に初土俵、1941年には1月場所に序ノ口で、5月場所には序二段に昇進してそれぞれ出場しているので、この本の年月の記述はあやふやである。

これが入門して、そのあと、まだ幕内力士になる前の写真ではないかと思うが、確認する方法がない。彼は1950年には関脇でありながら、突然相撲界を引退し、別の格闘技を選んだ。
プロレスラーの力道山である。

わたしの手元には力道山の画像資料が600点くらいある。これは百瀬博教がわたしに「シオザワ、このあと、力道山の本を作ろうよ。力道山の資料がいっぱいあるんだよ」といったのである。それで、いずれ、そういう本を作ろうという話になって、わたしはそれらの画像を預かっていた。そのなかに、古い力道山アルバムがあったのだ。アルバムの中身は、相撲取りとして活躍していた頃までの、若き日の力道山の写真だった。

百瀬さんはちょうど10年前だが、わたしにそのデータブックをあずけたまま、死んでしまった。
わたしが百瀬さんから聞いた話なのだが、このアルバムは力道山が経緯があって、昭和38年の死の直前、まさか死を覚悟していたわけではないのだろうが、産経新聞の記者に古い写真を貸してもらいたいといわれて、そのアルバムをあずけて、そのまま死んでしまい、その記者の手元に残ったモノだった。そして、その新聞記者が死んだあと、細かな事情は分からないが、百瀬さんはそのアルバムを300万円で買ったと言っていた。わたしは彼の持っていた力道山の画像データを全部預かったのだが、現物のアルバムは彼の死後、どうなったか、わたしは知らない。多分、当時、百瀬さんと仲よく行き来していた誰かが持っているのではないかと思う。若き日の力道山の写真は全部合わせて百二、三十枚はあるのではないかと思う。一枚ずつが興味深い写真なのだが、その写真が持っている本当の意味を知る方法は残念ながら歴史の深い闇のなかに沈んで、なくなってしまっている。いずれにしても、これも沈黙図書館の秘蔵資料として永久保存(わたしが生きているあいだ、手元に置いておくと言うこと)しておこうと思っている。

★★★★★
[編集後記]
先日、PVの最低記録を更新!

これがJasmine Editorials のPVの現実。低落没落傾向にある。

一月の下旬に茉莉花社のホームページを作ってアメブロと連動するようにしてから、三週間あまりが経過した。この間、アメブロと自社のホームページの連動の形がどういうのがいいか、ベストの形を模索しつづけている。

Jasmine Editorials で取り上げる話題も、どういうテーマがいいのか、読者の質が分かっているようで分かっていない。2月の7日に京橋のフィルムセンターで『スワノセ・第四世界』の上映会があり、その映画のDVDブックを作る話にわたしが関わっていることが分かっている人がいるらしく、その時、ある程度のPVを集めたのだが、それがじりじり減りつづけて、つい先日、最低記録を更新してしまった。

ここのところ、昔よくやったパロディやおちょくり画像を排除してやってきたのだが、そういうのを面白がる読者もいるのだろう。こんなヤツである。

このあと、茉莉花社のホームページとアメブロの沈黙図書館とどういうふうに差別化するか、その問題に取り組まなければならないと思っているのだが、いずれにしても別途で、自分の作品の原稿書きとほかの人の著作の編集作業があり、殺人的に忙しいことに変わりはない。面白いモノを作らねばとは思うが、その面白さもどういうものがベストなのか、自分でも今イチ分かっていない。昔話ばかり書いていていいのだろうかとも思う。あせらず、時間をかけて、目指す形を作りあげるしかないと思っている。

今週はここまで。  fini.

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です