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2018-03-22

Jasmine Editorials #11 沈黙図書館秘蔵 蔵書特集

読書の春到来 本の特集です!

It’s Underconstruction!
こちらは茉莉花社・塩澤幸登のブログです。

Jasmine Editorials #10
★沈黙図書館通信★
2018年03月21日号

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表紙&扉

三好達治「甃のうへ」

小竹向原の満開  緋寒桜

この季節になると、いつもこの詩を思い出す。前にどこかで書いたかも知れないが、わたしの根源的な美意識は、三好達治のこの詩から作られはじめたと書いていいかもしれない。これもカビの生えたような話なのだが、わたしが初めて相思相愛の恋愛をしたのは14歳、中学2年生の時だった。わたしは世田谷の世田谷観音のすぐ近くにある区立の駒留中学校というところに通っていたのだが、ここはしだれ桜の美しいところで、寺の脇の道がちょうど通学路になっていて、春、連休明けまで。桜並木に花が咲き乱れた。

わたしが好きになった女のコの家はこのお寺のそばにあり、わたしの通学途中の道すがらだったのだが、毎朝、わたしがその家の前を通りかかるのを見計らって、家から出てきて、前後ろに並んで、登校した。そのとき、ちょうどさくらの花が満開で、その花の咲き乱れる道を胸をときめかせながら歩いたのである。その光景というか場面は、そのころ読み始めた詩集の、この詩が琴線に触れたように、強烈に記憶に焼き付いていて、美しい春と美しかった、わたしが初めて本気で愛した人の面影に強固に結びついている。

これが彼女のいえ。56年前にはオシャレで美麗な洋風建築の建物だった。先日、行ってみたが誰も住んでいないようだった。その人の消息はわからないし、その人の名前をここに書くわけにもいかない。わたしたちは同級生で、彼女もわたしもクラスのなかでは背の高い方で、教室では一番うしろの列で、二人掛けの机に並んで勉強した。堀辰雄の小説がステキということも、彼女から教わった。さくらの花に似た可憐な、美しい人だった。

目次

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[今週のグルメ・ラーメン ガイド]
江古田 『太陽』

ラーメンが480円。大盛りにすると、70円プラスで550円。わたしは体重に良くないと知りながら、ここに行くといつも大盛りを食べている。今風の動物系の出汁ではなく、完全な煮干し系ラーメン。ラーメン屋業界のなかで、煮干し系の出汁のラーメンは滅び行く少数民族みたいなところがあるが、ここと保谷の大勝軒だけは別格。いつも大繁盛していて、美味しい。

煮干し系のラーメンは餃子とかチャーハンとかと組み合わせて食べてもいい。豚骨系のラーメンなどは、併食に米の飯(ライス)以外は受け付けないようなところがあるが、煮干し系のラーメンはラーメン定食のラーメンとしても最適だ。

店は江古田の盛り場のど真ん中にある。二階が今どき流行るのかというそろばん教室。下の孫(9歳)がそろばんが大好きだと言うから、お稽古事の一つとして生き延びているのかも。
話がわき道にそれてしまったが、この店には昔、八十過ぎくらいのおばあさんがいて、わたしが行くと、愛嬌を振りまいて「元気にしてました?」と聞いてくれて歓迎してくれていたのだが、いつの間にか姿を消してしまった。店の手伝いのオバサンにきくと「もう店に出るのは止めるといいだしたんです。身体がだいぶ弱っているんですよ」とのことだった。おばあさんがいなくなってからでもからもう、四、五年たつ。調理場の中のおじさん(たぶん、おばあさんの息子)は年はとったが、あいかわらず元気で勢いがいい。

江古田には行きつけの古本屋があるので、たまに出かける。他にラーメン屋は何軒もあるが、いつもこの店でこのラーメンを食べている。

 

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[今週の特集]=大特集 沈黙図書館秘蔵書籍 秘話
わが沈黙図書館には、一万を越えちゃうかも知れない蔵書があるが、その一冊一冊、すべてが因縁があって集まってきた書籍、単行本、雑誌、資料、史料である。その中から、春の読書シーズンに向けて、何冊かの、その本にまつわる因縁話を書いてみたいと思う。

1957年
『ドリトル先生航海記』
1961年10月発行 ヒュー・ロフティング著 井伏鱒二訳 岩波書店刊

この本に初めてで会ったのは、たぶん、小学校二年か三年、8歳か9歳の時。まだ、長野県の伊那谷の小学校にいた。天竜川沿い、下伊那郡川路村川路小学校。いまは飯田市に併合されている。クラスの担任の先生が授業時間の合間に教室で朗読して、聞かせてくれて、大好きな本になった。そのときに読んでもらい、あとから図書室から自分で借りて読んだのだが、そのときの『ドリトル先生航海記』はこの体裁の本ではなかったと思う。

とにかく、ドリトル先生が動物の言葉を話せる博物学の博士だったということと、博士がキッチンで焼くソーセージという食べものがどういうものかイメージできず(昭和31年である。このころ、まだ田舎にはソーセージというものも出回っていなかった)ソーセージというのを食べてみたいと思った。また、こういう話の書ける小説家になれるといいなと子供心に思った。博物学博士になりたいというそのころの夢は、いまでも蝶のコレクションをしているという形で、残っている。この頁がその場面。そのときの担任の先生は木下進という若い先生だった。

『小学五年の学習』という雑誌の付録だった。

わたしは素行は悪く、行儀が悪くて忘れ物ばかりする問題児だったが、学校の成績は優秀で、親にも先生にもその不均衡が最大の問題だった。小学校3年のおわりに父が商売に失敗し、家業を整理して一家で上京したのだが、そのときに木下先生が餞別にくれたのが下の本。別れの間際に「しっかり勉強していい子になりなさい」といわれたが、いい子になれたかどうかは自分では分からないが、勉強はいちおうしっかりやったつもりでいる。

先生がどういうつもりで、この本をくれたのか、これからたくさん作文を書きなさいというアドバイスだったと思うのだが、わたしはその言いつけを守って、いまも作文を書きつづけている。62年前に出会った本である。

 1962年
『新進傑作小説全集 横光利一集』
1929年7月発行 横光利一著 平凡社刊

この本は文庫本サイズで、いわゆるフランス装丁という不思議な体裁の本。
中学校2年生の時、玉電中里の駅のそばの「時代屋」という古本屋の平台で10円で売りに出ているのを買った。子供のお小遣いで買える古本である。このほかに、子供のくせに吉田弦二郎とか永井荷風、生田春月、ショーペンハウエルなども買って読んでいる。買ってすぐこの本を読んだかどうかの記憶はないが、本当にこの本を読み直してショックを受けたのは大学一年になってから。文学というモノがどういうものか、ある程度分かり始めてからのことである。それで、そのころ、集中して横光の小説ばかり読んでいた。真似して原稿書きして、この人のおかげで、人並みの文章が書けるようになったようなモノである。何年も前、まだ中学生の頃に買った一冊10円の本がこんなに大きな役目を果たしてくれるとは思わなかった。

この本はいちおう大事に保存していたのだが、40歳ぐらいのときに蔵書を大事な本を除いて全部、売り払ったことがあり、そのとき、不覚にもこの本も手放してしまったのである。それで、その本を五年ほど前になるだろうか、箱もカバーも完全な状態の古書を池袋の古本屋さんで五千円で売っているのを見つけた。

昔、10円で買った本をあらためて五千円で買うのもどうかと思ったが、本を手に取ったトタンに、昔、この本で経験したいろいろな思いが蘇って、どうしても買いたいと思ってこの本を買った。

横光利一の本は単行本、全集も含めて、かなりの数持っている。前に紹介したが、『旅愁』などあれこれ6種類くらい持っている。一番好きなな作品は『上海』。新感覚溢れるシャープな小説だと思う。時折、読み返して、ゆるくなってしまいがちな自分の書き言葉の律動感を修正するのに使っている。

1967年
『共同体の基礎理論』
1955年7月発行 大塚久雄著 岩波書店刊

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大学に入って、当時の早稻田の文学部は入学するときにⅠ類(社会科学系)かⅡ類(文学系)のどちらかを選ぶのだが、わたしは本能的に、文学を専攻するのはやめようと思って、Ⅰ類を選んだ。そこで、心理学か美術史学を勉強しようと思っていた。それが、考えが変わったのはテレビ局でADのバイトをして、自分が如何に幼いものの考え方をしていたかを痛感したからなのだが、その時期に出会ったのが、この『共同体の基礎理論』だった。確か、大学の生協の書店コーナーで見つけて、買ったと思う。社会科学の本にしては薄く頁数も100頁ほどしかなくて、簡単に読めそうだったのである。共同体というのが何かもよく分からずに、この本を読み始めたのである。

共同体というのは、家族とか仲間、会社、結社などの人間集団のことをいうのだが、この本はその歴史的なあり方を説いたモノだった。これと前後して、テンニエスが書いた『ゲゼルシャフトとゲマインシャフト』などを読むのだが、これを読んだことで、社会の変化を歴史としてとらえる考え方の学問の存在を知った。つまり、資本主義社会がどういうふうな経緯でできあがったかということを歴史学的に研究する学問である。それが[経済史]だった。つまり経済学を裏側から見るようなものである。この時期に、『共同体の〜』の著者である東大の大塚久雄らによって『西洋経済史講座』という本が出版されていて、これを読むことで、わたしはますます歴史を経済変動から見るという考え方にのめり込んでいった。それで、専門課程に上がるとき、回りの女の子たちには「オレは美術史に行ってアートの研究をする」といっていた前言を翻して、西洋史学を専攻するのである。
3年生になり、西洋史学科に進級したあと、本格的に『資本論』やマックス・ウェーバーの著作、ここに掲げたアンリ・ピレンヌの『ヨーロッパ世界の誕生』、ホイジンガの『中世の秋』などの著作を読んで、社会変動はその時代の経済活動によって起こり、文化もそれを土台にして創られていく、という考え方のなかにのめり込んで、社会変動を人間総体の営為の集積の歴史とする考え方をするようになっていくのである。

いま考えると、この本に出会って経済史学をやってみようと思ったことが良かったか悪かったかよく分からない。それは西洋史学を専攻して良かったか悪かったかという質問と同義なのだ。ここでこうやって原稿を書いているのも、あの時、あそこでこういう選択をしたことのなれの果てなのだから、ダメだったと考える訳にはいかない。『共同体の〜』はそういう、わたしの運命を決めた本の一冊なのだ。

1974年
『魔境の狼男』
1955年7月発行 大塚久雄著 岩波書店刊

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大学を卒業したあと、出版社に就職し、芸能雑誌の取材記者になったのだが、そこで書く原稿は高校生の女の子や中学生の男の子が読む文章で、自分なりにかなり鬱屈していて、最初の頃は家に帰ると、吉本隆明とか埴谷雄高とか、レヴィ=ストロースとかそういう本ばかり読んでいたが、あるとき、何がきっかけだったか忘れたが、ペーパーバックの娯楽小説に取り憑かれて、夢中でそういうたぐいの本を読むようになった。山岡荘八や司馬遼太郎、中里介山の『大菩薩峠』などを恐るべきスピードで読破し続けたのはこのころであるる時代小説は、柴田錬三郎や吉川英治、山田風太郎などはもう中学生の頃から読んでいたのだが、現代物を読み始めたのは、大藪春彦のハードボイルドか、この平井和正の『狼男シリーズ』がきっかけではないかと思う。いま読むと、なんだこれはというようなところもあるが、このときはこういう本に夢中になれた。

『狼男シリーズ』はイラストレーターの生賴範義の装画、イラストでも有名で、かっこよかった。この時期の大衆小説の世界は平井のほかに半村良、西村寿行、荒巻義雄の『白き日旅立てば不死』とか大繁盛の状態だった。
このほかに、早川書房系の翻訳物のSF小説も読みあさった。それから、イギリスの冒険小説。これはマジに面白かった。

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これらの娯楽小説がわたしにどういう影響を与えたかはよく分からないが、こういう小説を書きたいなと思って、実際に書いたこともあるのだが、どうも娯楽に徹することができず、難しい社会分析や人間心理の解明などを一生懸命に書いてしまう。書くものがやさしく楽しいエンターテインメントに徹することができない。その意味で、娯楽に徹した筆裁きで小説を書いてみせるというのは、わたしがやりたくてもできない憧れの原稿書きなのである。多分、ベストセラーというのは、ある種、自分をコントロール、セーブしながら書く原稿書きのなかから生まれてくるのではないかと思う。

1983年
『丸山ワクチン』
1976年9月発行 丸山千里著 KKベストセラーズ刊

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1983年の夏、母にガンが見つかった。胃がんで、末期でもう直しようがない、あと10ヶ月くらいの命ではないかと宣告された。

肉親の、それも最も大切にしていた人の死を宣告されて、このときは本当に辛かった。それで、何とかならないかと考えて頼ったのが、丸山ワクチンだった。
当時、医者から手遅れと見放されたガン患者がそのあと、頼る術というのは丸山ワクチンしかなかったのである。これはいまもそうかも知れない。
丸山ワクチンは、日本医科大学皮膚科教授だった丸山千里博士(1901-1992)が開発したがん免疫療法剤である。無色透明の皮下注射液。
1944年、丸山によって皮膚結核の治療のために開発され、その後、肺結核、ハンセン病の治療にも用いられた。支持者たちは末期のがん患者に効果があると主張しているが、薬効の証明の目処は立っていない。
1976年11月に、ゼリア新薬工業から厚生省に「抗悪性腫瘍剤」としての承認申請を行うが、1981年8月に厚生省が不承認とした。ただし、「引き続き研究継続をする」とし、異例の有償治験薬として患者に供給することを認め、現在に至る。
わたしは毎月、一回ずつ千駄木の日本医大を訪ねて、ワクチンをもらい、それを福島の郡山市の母が世話になっている病院の医師のところに届けた。上記の青字部分はウィキペディアからの引用だが、あれから30年以上経過しているのに、丸山ワクチンの立場が全く変わっていない、非公認有償治験薬であることに驚く。

要するに、ガンは早期発見のシステムを確立することで次第に昔のような死病ではなくなってきているのだが、末期で発見された、手遅れの患者には文字通り手遅れで、患者の闘病を見守る家族ができることといったら、丸山ワクチンくらいしかないのである。
この本はそういう苦しい体験と結びついた、重い記憶の絡んだ本なのだ。

1993年
『絶対内定95』
1993年12月発行 杉村太郎著 マガジンハウス刊

ここから何冊かは、わたしの編集作品。
1993年に雑誌の編集長を首になり、書籍出版局に異動して、単行本の編集者になった。付記しておくと、わたしが編集長を務めていた『ガリバー』は当時、実売で7〜8万部あって、同様に低空飛行を続けていた後発の雑誌『自由時間』の倍以上の部数売れていたが、編集費がかかりすぎていて、自由時間より赤字幅が大きいということで、廃刊になった。「シオザワにやらせてダメなら、誰がやってもダメだと思った」というのが、当時、責任者だった木滑の言である。それで、書籍編集部に異動していって、最初のヒット作がこれ。元芸能人の杉村太郎を著者にして作った本。

最初、みんなバカにして誰も売れるといわなかったが、強引に突っ走って売れるように編集して、分厚い本を作った。作戦があたって、初版13000部、増刷5000部で15000部くらい売れた。販売率が80%を越えた。翌年、もっと部数つんで、会社も協力的になって、翌年は25000部くらい売った。

誰にもいったことがないが、『絶対内定』の装丁の原案はオレ。下のドラッカーの本を真似して作った。

誰からも文句言われなかったが、いま考えると冷や汗が出る。この本を軌道に乗せたことも含めてよくやったと思う。毎年、時期に合わせて作る、この本のおかげで、誰からも文句の付かない、好き勝手の編集者生活を送ることができた。『絶対内定』は後に、面接とか、履歴書とか、自己分析とかに分かれて、シリーズ化され、合計で10万部を超えて売上も二億円近いドル箱企画になった。

『絶対内定』はいまも売れ続けていて、累積発行部数150万部を越えているという。著者の杉村太郎は9年ほど前に原発不明がんという奇病で死んでしまった。この本のおかげで彼は、我究館という就活塾の経営を成功させたが、そのことが彼が死病に取り憑かれる、きっかけになったのではないかと思う。毎年、季節に合わせて、千頁を超える編集頁に手を入れるのは大変な作業なのである。彼はわたしがこの本に関わらなくなったあとも一人でその作業をやりつづけていた。命を削っていたのではないか。

杉村太郎の人生は若死にして、精いっぱい生きた人生だったかも知れないが、あとから思えば、大好きな芸能をやりつづけて、芸能人として成功した方が、良かったのではないか。わたしが彼の人生をねじ曲げてしまったかも知れない。そんなことを考える。

1994年
『ワイルドライス』
1994年7月発行 ロバート・ターナー/塩坂三郎著 風雅書房刊

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生涯に一冊だけヘア・ヌードの写真集を作っている。それがこれ。カバーに著者として名前が載っている塩坂三郎というのは、わたしの偽名である。考えてみると、茉莉花社を作ったのは平成6年(1994年)の7月で、この本の発行も7月だから、この本の印税を受け取るために、茉莉花社を作ったのかも知れない。そういう内職の極致、因縁の本である。

この本を作った因縁を書いておくと、親しく行き来していたタイの取材コーディネーターをしていた某氏が連絡してきて、「シオザワさん、ちょっと見てもらいたいものがある」というのでいっしょにお茶を飲んだ。それで、彼が持ち込んできたのがこの写真だった。現地でお金を貸しているタイ人のカメラマンが、借金のカタにしてくれといって、持ち込んだモノだという。どの写真もタイの週刊誌などの雑誌のために撮影したモノで、「この写真を好きに使っていいから、借金をチャラにしてくれないか」といわれたのだという。

見ると、確かにそれなりに衝撃的なヘア・ヌードのフィルムが女のコ、30人分くらいあった。それで、当時、ヘアヌードの写真集を連発して話題になっていた風雅書房に声をかけたのである。風雅書房には、平凡パンチ時代にフリーのライターとしていっしょに仕事していたM氏が編集長として采配を振るっていた。
それで、そこにフィルムを持ち込んでそれを換金するだけではわたしの仕事じゃないと考え、タイトルと本のコンセプト、タイの文化と歴史に関するレポート(400字原稿用紙で300枚くらいあったと思う)をつけて、編集プロダクションとして、デザイナーが編集作業すれば、本ができあがるようにして、出版社に渡した。印税を*百万円もらって、写真を持ち込んだコーディネーターの某氏と半分こした。
この写真集は定価3800円で五千部発行したと聞いている。あまり売れなかったのではないかと思うが、二千万円近い商売だから、版元もある程度は儲けているはずである。

それから、カラーの写真集を面白いと思いはじめたところで、女優の岡本佳織が「シオザワさん、私の写真集を作ってくれませんか。トヨタがお金を出すと言ってます」という話があり、トヨタがスポンサーになってくれるならと言うことで、マガジンハウスでこの本を、社の業務として作った。

それがこの本。発行は上のヘアヌード写真集に遅れること半年、1994年の12月で、『美しい冒険』というタイトルになってしまったが、本当は『疾走』という名前の本だった。
岡本佳織というのはもともとは日活のロマンポルノでデビューした女優だったのだが、そのあと、自動車レースのライセンスを取り、そのころ、毎年話題になったパリ・ダカール・ラリーに女性でただ一人、トヨタのバックアップで参戦した、A級ライセンスを持つ自動車レーサーだった。そのバリ・ダカールの戦いの模様を撮影した膨大な量のフィルムが存在したのだ。岡本とは何度もいろんなところで出会って、本作りを進めた。本人はかわいくて写真もクオリティが高く楽しい仕事だった。恋愛する代わりにこの本を作ったのである。

アフリカを走り回るレースの写真はどれも迫力があり、いい本が作れたと思う。わたしはこのころはまだ、デザインソフトは使いこなせず、一枚づつ写真を切り貼りしてレイアウトを作ったのが、この本がわたしが企画、構成、原稿執筆からデザインまで全部一人で作りあげた、初めての本である。
本はあまり売れなかったと思うが、トヨタがお金を出してくれたから赤字にはならなかったと思う。
岡本佳織さんのその後については白銀でドーナツ屋さんをやってひと山当てたという話を聞いていたが、調べてみたらこんな気になるニュースがあった。一陽来復というのは彼女の会社である。
帝国データバンクによると、一陽来福は(2017年)2月15日、東京地裁から破産手続き開始決定を受けた。負債は現在調査中。2005年12月に、岡本香了の芸名で活動する女優・タレントである現代表の川上麗子氏によって、ヨガ教室の運営を目的に設立された。その後、2011年より和風ドーナツやかりんとうを主体とした和菓子の販売を主業とし、主力商品である「禅ドーナツ」の知名度が全国的に上昇した2011年7月期には、年売上高約1億9400万円を計上していた。
テレビ番組で取り上げられるなど全国的に相応の知名度を有していたものの、消費者の嗜好が移り変わるなかで売り上げも漸減し、2015年7月期の年売上高は約8800万円に減少していた。この間、販管費の削減などに努めていたものの赤字決算に陥り、借入金負担も重荷となるなか、今回の措置となった。
彼女はいま、元気にしているだろうか。女性の年の話は残酷かも知れないが、彼女の年齢を調べると55歳になっている。『ガリバー』をやっていたとき、沖縄に連れていって水着の写真を撮ったことがあったが、あれは29年も前のことである。あの可愛かった彼女がその年齢かと思うと、わたしが70歳なのだから当たり前のことだが、心境複雑である。
彼女の消息はさておき、わたしはこの本を作ったことで、本格的にコンピューターの学校に通って(会社が授業料を出してくれた)勉強しようと思いはじめ、フォトショップやクオーク・エクスプレスの使い方を覚え、会社をやめる前から、秘かに、編集ワンマン・アーミーとしての陣容を整えていった。
そして、この本を作りあげるのに前後して、会社から創立五十周年の記念企画で、『平凡パンチの時代』という本を作れと言われて、これがわたしのノンフィクション作家としての最初の作品になっていくのである。そして、その経緯には、次に紹介する山際淳司の本が関係している。

1995年
『最後の夏』
1995年7月発行 山際淳司著 マガジンハウス刊

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山際淳司とわたしが知り合ったのは、彼が角川書店の『野性時代』で日本ノンフィクション賞をもらった前後のことで、わたしはそのとき、『週刊平凡』という雑誌の取材記者をやっていて毎週原稿書きをしていたのだが、会社の意向だったのだろうが、編集者としても仕事しなさい、この人を使ってみなさい、といわれて引き合わされたライターだった。かれは、その後、文藝春秋の『スポーツ・ナンバー』で「江夏の21球」というノンフィクションを書いて、一躍有名になるのだが、その前のことで、わたしは彼とコンビを組んで、デヴィ夫人とか、華道の安達瞳子さんとかのノンフィクションを作ったところから付き合いが始まっている。その後、「平凡パンチ」や「ターザン」でいろいろに付き合ったが、わたしが書籍出版局に移ったあと、雑誌の『鳩よ!』で、山際の連載話が持ち上がり、その担当編集者をやってくれないかという話が来た。これは山際の意向だったのか、当時、『鳩よ!』の編集長だった大島一洋の意向だったのか、はっきりしない。とにかく、それで阪神タイガースの話を書こうということになって、昭和48年の阪神が最後の最後にペナントレースで巨人に負ける話をノンフィクションにした。それで、山際とは、そのほかにもゴルフの本とか作った。わたしはそのときはまだ、自分で原稿を書いて本を出すという、いわゆる作家仕事をそんなに明確にイメージしていたわけではなく、自分の書くものを単行本として人に読ませる自信があったわけではないのだが、会社から、創立五十周年の記念出版物を作れと言われて『平凡パンチの時代』という企画を考え、これのOKをもらって取材をはじめた。それで、材料を揃えて、それを山際に書いてもらうつもりでいたのである。そのころの彼は、NHK(テレビ番組)に出始めて、これの評判が良く、次第に仕事の形を変えようとしていた時期だった。それが、前記の『鳩よ!』の連載が終わってしばらくしてのことだが、胃がんが見つかり、死んでしまったのである。それで、会社から「急いで山際の連載を単行本の形に編集してください」と言われて、複雑な思いのなかで作ったのがこの本。雑誌連載中のタイトルは「流転の夏」というものだったが、わたし自身の山際に対する訣別の思いをこめて『最後の夏』とした。この本は、彼の死の直後ということもあって、山際の本には珍しく五万部くらい売れた。死んでベストセラーになるというのも、なんだか残酷な話で、そのときの心情は複雑だった。

その後、奥さんが山際の死の前後の事情を書き綴った追憶本を講談社から出版している。また写真、右の『スローカーブをもう一球』は彼のベスト作品を集めた短編集。

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山際淳司はわたしと同世代で、わたしが付き合っていた作家のなかでは、もっともかたちのいい原稿を書いてくれる人だった。彼の死後、そのとき、懸案の『平凡パンチの時代』という企画の取材を進めていたのだが、当時の上司だった林公一氏の「オマエ、自分で書いてみろよ」という進めもあって、また、どういう原稿になるか分からない、誰かに頼むのも気が進まず、この本を自分で書くことになるのである。
このことが、けっきょくわたしをノンフィクションの道に入っていくきっかけになった。あの時、山際が死んでいなかったら、わたしはいまどうしていただろうか。それでも作家としてやっていただろうか。自分でも分からない。
『最後の夏』はそういう運命の本だった。

2004年
『セックス抜きに老後を語れない』
2004年4月発行 高柳美知子著 茉莉花社刊

高柳美知子さんとは2003年だったと思うが、人に紹介されて知り合った。この人は新興俳句の旗手として有名だった高柳重信さんの妹さんで、埼玉の中学校の先生で、性教育の専門家だった。わたしはそのとき、『上手に年をとる』という本を書いている最中で、彼女に高齢者の性の問題を話してもらったのである。

そのとき、高柳さんが「シオザワさん、こんなのがあるんですよ」といって、見せてくれたのは、彼女が養老院に呼ばれて、お年寄りたちの前で講演した時の記録を原稿にして、それをプリントアウトしてホッチキスで本の体裁のテキストにした、粗製濫造のパンフレットだった。養老院のおじいさんたちが勝手に彼女の講演の録音テープを読める形にしたのだといって、苦笑いしていた。これを五百円の値段をつけて売っているのだという。「こういうのって、字も間違いだらけだし、文章もわたしのいったとおりになっていないし、何とかならないかしら」と相談された。
そのとき、もしかしたら、このテーマの本はキチンと作って本にしたら売れるかも知れないと思った。それで、あらためて彼女にインタビューして、それを原稿に起こし、構成し直して、一冊の本の体裁にしたのが、この本である。このとき、既に、河出書房新社の、いまは社長になられている小野寺さんと知り合っていて、河出を頼って本を作ってみようと考え、何か売れる企画をと考えていたところで、この企画に出会ったのだった。
ひとつはわたしはこのとき、五十代半ばでこの問題が、いずれ、わたしたちの世代の重要なテーマになるだろうと思ったこともあった。このとき、彼女は72歳だったと思う。

タイトルはいろいろと考えてこういうふうにした。
これが茉莉花社と河出書房新社のジョイント本の第一弾だった。高齢者の性の問題はこのころはまだタブーのようなところがあり、この本はそれに対して心構えというか、考え方を説いただけの、いま思えば他愛ない内容だったが、この時点では、そういう本もなかったのである。この本は初版5000部でスタートして、最初、あまり動きが良くなかったが、共同通信の人が話題に取り上げてくれて、それが全国の地方紙に次々と掲載されて、猛烈な勢いで売れはじめた。河出書房には1週間の間に二千冊の注文があったという。
性的なテーマというのは本作りが難しく、下品に作ると下品な人しか買ってくれない。その意味で、この本はセックスについて、精神論を説いているだけで(それでもそのころはそういう本もなかったのだが)読み終わると、なんだそういうことか、と言うような、具体的に女の口説き方でも載っているのではないかと思って読む人はガッカリするような内容だった。それでも、五千冊はあっというまに売り切れて、さらに1000部増刷した。定価は1400円だから、安い本だったが、わたしはこれでかなり儲けた記憶がある。
著者の高柳美知子さんもこの本が出たあと、高齢者の性の問題の専門家として大活躍をし始め、わたしたちはそのあと、何年かのあいだに追加で三冊の、同じテーマの本を作ったが、猛烈に売れたのは最初の本だけだった。

それでも、高柳さんはNHKや読売新聞などでレギュラーの番組や頁を持つようになり、『週刊現代』からはセックスの頁の相談役みたいな形で、忙しい晩年を過ごすようになられた。そして、80歳をすぎていたと思うが、四年くらい前のあるとき、「これで引退しようと思います。本のあとのことはお任せします」というメールが来た。
高柳さんも離婚の経験者で一人暮らしだったが、息子さんが一人いらして、その人は北海道の札幌で教師をやっているという話だった。多分、息子さんといっしょに暮らして、最晩年をお過ごしになったのだと思う。消息が気になって、ネットで情報を調べてみたら、2016年に亡くなられていた。1932年生まれだから享年84歳だった。女の平均寿命は88歳くらいだから、そこまで生きることができなかったことになる。
わたしは忙しくて、彼女からメールが来たとき、「分かりました。何か新しいことがあったら連絡します」と返事を書いたきり、そのままになってしまった。高柳さんの死の細かな事情が分からないまま、内心忸怩たる気持ちでこれを書いている。

2005年
『絹半纏』
1986年9月発行 百瀬博教著 鳰書房刊

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百瀬さんはわたしがマガジンハウスの社員だった頃、コートを買ってくれたり、いろいろよくしてしくれて「シオザワさん、シオザワさん」といって持ち上げてくれたが、それは木滑や石川(わたしのマガジンハウスでの上司たち)から「アイツはやるときはやる男」などと、わたしについて、いろいろと吹き込まれていたからではないかと思う。知り合ったのはわたしが石川のあとを引き継いで編集長をやった『ガリバー』という雑誌でのことだった。1991年だと思う。肩で風を切って歩くような、すごい勢いのある人だった。

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百瀬さんは1990年代、マガジンハウス、文藝春秋と渡り歩いて、ずいぶんたくさんの〝不良〟を売りにした本を書いたが、小説家というのが案外稼ぎにならないことを実感して、原稿書きがイヤになっているようなところがあった。自分のことを自分で書くよりも誰かに書いてもらいたいと思いはじめていたのだろう。

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わたしがマガジンハウスを辞めたあと、百瀬さんと再会した経緯はずっと前にブログ(アメブロ2017年5月29日のところ)に書いたからそれを読んでもらえばいい。

何年ぶりかで出会ったときに、ときに、「ボクの大事なモノをあげます」といって、贈呈本してくれたのがこの『絹半纏』だった。詩集は発行1986年と、そのときより20年前に私家版として作った大切なモノで、百瀬さんが残り少なくなった現物を大事に保管していたうちの一冊だった。貴重な本にわたしの名前を書いて贈呈してくれた彼のために、わたしは『MOMOSE』という小説を書いたのである。

杉村太郎といい、山際淳司、高柳美知子さん、百瀬さんと、別に意識したわけではないが、いっしょに本を作った思い出を書き並べたら、死んでしまった人たちが名前を連ねてしまった。

2018年
『三田村鳶魚全集』
19**年*月発行 三田村鳶魚著 中央公論社刊

最後に。現状の沈黙図書館の蔵書状況と今後の方針について。

先日、椎名町の駅のそばの古本屋の店先で、三田村鳶魚の全集、全巻(28巻)そろいで2700円で売っているのを見つけた。三田村鳶魚というのは戦前昭和から戦後にかけて民間で江戸時代の文化を研究紹介した、「江戸学」の開祖といわれる研究家。この人の全集本は古本屋の平台で、一冊、二冊を時々見かけるが、全部揃って値段が付いているのは珍しかった。

最近の傾向だが、古本屋さんに言わせると、全集というくくりの本が全く売れなくなってきていて、暴落状態なのだという。三田村鳶魚だけでなく、北原白秋とか萩原朔太郎とか、夏目漱石、室生犀星と、いわゆる文豪たちの全集がまとめてでは売れず、一冊百円とかそういう値段でバラ売りされている。先日、上板橋の古本屋で、昔、一生懸命に生活費のなかから本代をひねり出して買った角川書店版の立原道造全集がバラ売りされて、三冊二百円で売られていて、ショックを受けた。おそらく、現代は、こういう全集のような[系統性]というか[全体性]、[まとまり]のようなモノには意味がないと考えはじめている時代なのだろう。[無思想]といってもいいのかもしれない。

この全集を見て、これは無理してでもわたしが買わなければ、買う人はいないのではないかと思った。古本屋さんのご主人に「これ、下さい」といったら、うれしそうにしていたが、「全然売れないから、バラ売りしようかと思っていたところなんです」といっていた。かなりの収納のスペースをとるからどうだろうかという思いもあるが、資料としては貴重で、全巻そろいでまとまっているから内容も把握しやすく、江戸時代についての資料としては、不可欠の一級品である。

わたしのスケジュールには当分江戸時代のことをテーマに取り上げて原稿を書くという予定はないのだが、それでも江戸時代関連書籍というと、自宅の書斎の本箱だけで、下の写真のような本がある。このほかに、沈黙図書館におなじくらいの量があり、さらに目白の作業場には新選組、戊辰戦争、幕末騒乱の本を集めて置いている。

わたしの場合は、資料がないと何も書けないようなところがある。新選組や土方歳三のことはいつか作品として書いてみたいと思うが、それがいつのことになるかは分からない。どういうわけか、いつも、自分が生きた時代のことを記録として残しておかなければという気持ちに駆られて、ものを考えている。
あと何年、原稿書きをしていられるだろうか。それにしても、いま、3カ所に分かれて置いている本を一カ所に集めて整理しないと、蔵書の全体状況が分からない。
このことを真面目に考えよう。

今回の本の特集はここまで。ご愛読、ありがとうございました。

★★★★★
[あとがき]
菊地先生の『人形メディア学概論』の版面ができた!

四六判・上製本・360頁。読み応えのある、いい本になった。
詳細な情報はおって書くようにします。

今日はここまで。Fin.

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コメント2件

  • chikochiko より:

    原発不明がんという奇病 という記述がありますが・・・ 
    奇病じゃありません。

    「原発不明がん」というのは、「どこの臓器のがんから転移したか、もはや不明のがん」という意味だけのことで、原発は原子力発電所じゃないですよ~ って 余計な指摘だったかしら・・

    • editor より:

      病気になった本人(杉村太郎)の奥さんが医者に「これは奇病です」といわれた。だから奇病と書いたのです。 塩澤

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